アフリカの古代王国:エジプト以外に栄えた偉大な文明たち

歴史

(画像はイメージです。)

アフリカ大陸の歴史と聞くと、多くの人がまず古代エジプトを思い浮かべるでしょう。確かにエジプトはピラミッドやスフィンクスなどの壮大な遺産を残し、歴史上非常に重要な役割を果たしました。しかし、アフリカ大陸にはエジプト以外にも多くの栄えた王国や文明が存在しました。これらの文明は独自の文化、経済システム、宗教、そして建築技術を発展させ、多くの貢献をしました。

本記事では、古代アフリカの中でも特に注目すべき王国や文明について紹介します。具体的には、ナイル川上流に位置しエジプトと密接な関係を持ったクシュ王国、地中海沿岸で強大な海洋国家を築いたカルタゴ、金の交易で繁栄したガーナ帝国、学問と文化の中心地となったマリ帝国、そして南部アフリカに大規模な石造建築を築いたモノモタパ王国です。これらの王国について詳しく掘り下げ、彼らがどのようにして繁栄し、何を成し遂げたのかを探ります。

このブログを読むことで、古代アフリカの多様性と豊かさを理解し、その歴史的な重要性を再認識できるでしょう。それでは、それぞれの王国について詳しく見ていきましょう。
  1. クシュ王国
  2. カルタゴ
  3. ガーナ王国(ガーナ帝国)
  4. マリ帝国
  5. モノモタパ王国
  1. クシュ王国

    クシュ王国は、ナイル川の上流、現在のスーダンに位置した古代王国です。紀元前1070年から350年頃まで続いたこの王国は、エジプトとの緊密な関係で知られています。クシュはエジプト第25王朝としてエジプトを一時支配し、「黒いファラオ」とも称されました。クシュの首都メロエは、鉄器製造の中心地として繁栄し、多くのピラミッドが建設されました。これにより、クシュはエジプトの文化的影響を受けつつも独自の文化と技術を発展させました。

    クシュ王国は、紀元前11世紀から4世紀にかけて現在のスーダンに存在した古代王国です。この王国はナイル川上流に位置し、その歴史と文化はエジプトとの深い関係により大きく影響を受けました。クシュ王国の起源は紀元前2000年頃に遡りますが、特に紀元前1070年から350年の間に大きな繁栄を遂げました。

    クシュ王国の最も重要な時代の一つは、紀元前8世紀から7世紀にかけての時期です。この時期、クシュ王国はエジプトを征服し、第25王朝を成立させました。これは「黒いファラオ」とも呼ばれるクシュ人のファラオたちがエジプトを統治した時代であり、ピアンキ王やタハルカ王がその代表的な人物です。彼らはエジプトの宗教や建築を取り入れつつも、クシュ独自の文化を維持しました。

    クシュ王国の首都は最初、ナパタに置かれていましたが、後にメロエに移されました。メロエは鉄器製造の中心地として知られ、その繁栄の一因となりました。メロエの遺跡には、多くのピラミッドや神殿が建設されており、その建築技術と芸術性は高く評価されています。メロエのピラミッドはエジプトのものよりも小型ですが、数が多く、そのデザインは独特です。

    クシュ王国は交易によっても栄えました。ナイル川を通じてエジプトや他の地中海世界と接触し、アフリカ内部の豊かな資源、特に金、象牙、香料などを交易しました。この交易活動はクシュの経済基盤を支え、王国の繁栄に寄与しました。

    クシュ王国の宗教は、エジプトの影響を強く受けていましたが、独自の神々も崇拝されました。アムン神はエジプトと同様にクシュでも重要な神とされ、彼の神殿はナパタやメロエに建設されました。また、クシュ王国には独自の神話や宗教儀式が存在し、これがクシュの文化を形成する重要な要素となりました。

    さらに、クシュの支配者は、エジプトのファラオと同様に神聖視されました。クシュの王たちは、自らを神の代理人と見なし、宗教儀式や建築プロジェクトを通じてその地位を強化しました。このようにして、クシュ王国はエジプトとの文化的交流を深めながらも、独自のアイデンティティを築き上げました。

    クシュの社会構造は階層的であり、王族、貴族、戦士、職人、農民、奴隷といった階層に分かれていました。特に鉄器製造や金属加工の技術は高度であり、これがクシュの経済力を支えました。メロエの遺跡からは多くの鉄製品が出土しており、これが当時の高度な技術水準を物語っています。

    クシュ王国の文化は、多様な要素が融合したものでした。エジプトの影響を受けつつも、独自の言語であるメロエ語を使用し、独特の文字体系も持っていました。メロエ文字は現在でも完全には解読されておらず、その謎がクシュの歴史をさらに魅力的なものにしています。

    4世紀になると、クシュ王国はアクスム王国による攻撃を受け、次第に衰退しました。最終的にはアクスムによって征服され、クシュ王国は歴史の表舞台から姿を消しました。しかし、その遺産はナイル川沿いの遺跡やピラミッド、そして数々の考古学的発見を通じて現代に伝わっています。

    クシュ王国の歴史と文化は、アフリカの古代文明の多様性と豊かさを示しています。クシュの王たちが築いた繁栄は、エジプトとの関係だけでなく、アフリカ内部の資源や技術、文化の交流を通じて実現されたものでした。クシュ王国の研究は、アフリカの歴史を理解する上で欠かせない要素であり、今後の考古学的研究や発見によってさらなる詳細が明らかになることが期待されています。

  2. カルタゴ

    カルタゴは、現在のチュニジアにあたる地中海沿岸に位置した古代国家で、紀元前9世紀にフェニキア人によって建設されました。カルタゴは商業と海軍力で知られ、地中海全域にわたる広大な交易ネットワークを築きました。特にローマとの間で起こったポエニ戦争でのハンニバルの戦術は有名です。最終的にはローマに敗北し滅亡しましたが、カルタゴの文化と技術は後の文明に大きな影響を与えました。

    カルタゴは、紀元前9世紀にフェニキア人によって北アフリカの現在のチュニジアに建設された古代都市国家です。この都市国家は地中海沿岸に位置し、その戦略的な立地と卓越した海軍力によって、短期間で強大な商業帝国を築き上げました。

    カルタゴの成立は伝説によると、ティルス王国の女王ディドーがフェニキアから逃れ、紀元前814年にカルタゴを建設したとされています。初期のカルタゴはフェニキアの植民地として始まりましたが、次第に独立し、強力な海軍を持つ商業都市国家として成長しました。カルタゴの港湾施設は非常に先進的で、二重の港を持ち、内港は軍港、外港は商港として機能していました。このような施設により、カルタゴは地中海の交易を支配することができました。

    カルタゴの経済は主に海上貿易に依存していました。地中海全域に広がる交易ネットワークを築き、主に金、銀、銅、錫、鉄、象牙、香料、穀物、ワインなどの物資を取引しました。特にカルタゴの交易品としては、当時のヨーロッパやアフリカ、アジアとの間で流通した象牙や香料が重要でした。また、カルタゴは農業にも力を入れており、特にオリーブ油やワインの生産が盛んでした。

    カルタゴの政治体制は共和制で、元老院や民会といった機関が存在しました。元老院はカルタゴの重要な政策を決定し、執政官(スフエト)によって執行されました。また、カルタゴの軍事力は強力で、特に海軍はその中核をなしていました。カルタゴの艦隊は優れた技術と訓練によって構成され、地中海での覇権を確立しました。

    カルタゴの歴史において最も有名なエピソードは、ローマとのポエニ戦争です。紀元前264年から紀元前146年までの間、カルタゴとローマは三度にわたって激しい戦争を繰り広げました。第一次ポエニ戦争は主にシチリア島の支配を巡るもので、最終的にはローマが勝利しました。第二次ポエニ戦争では、カルタゴの将軍ハンニバルがアルプス山脈を越えてローマを攻撃し、一時はローマを危機に陥れました。しかし、最終的にはローマの将軍スキピオ・アフリカヌスによってカルタゴは敗北しました。第三次ポエニ戦争では、ローマはカルタゴを完全に破壊し、その土地を塩で覆うという徹底的な制裁を加えました。

    カルタゴはその後、ローマ帝国の一部として再建されましたが、古代の独立国家としての栄光は失われました。カルタゴの文化はフェニキアの影響を強く受けていましたが、独自の発展も遂げました。カルタゴ人は独自の宗教を持ち、特にバアル・ハモンやタニトといった神々が崇拝されました。カルタゴの宗教儀式には、動物や人間の生贄が捧げられることがあり、特に児童の生贄が行われたことが考古学的に確認されています。

    カルタゴの建築と都市計画も非常に優れていました。カルタゴの都市は計画的に設計されており、広い通り、公共施設、神殿、住宅が整然と配置されていました。特に有名なのはカルタゴの防衛施設で、強固な城壁や防御塔が都市を取り囲んでいました。また、カルタゴの港湾施設も非常に発達しており、内港と外港が連結して効率的な物流システムを構築していました。

    カルタゴの芸術や工芸品も高い評価を受けています。特にフェニキアの影響を受けた美しいガラス製品や宝石、彫刻などが数多く発見されています。これらの工芸品は地中海全域で取引され、カルタゴの富と技術力を示しています。

    カルタゴはまた、学問や科学の分野でも貢献しました。カルタゴの学者たちは、地理学、天文学、数学、農業技術など多岐にわたる分野で活躍しました。特にカルタゴの農業技術は非常に進んでおり、灌漑システムや作物の栽培方法などが発展しました。

    カルタゴの遺産は、現在のチュニジアの考古遺跡として残っており、世界遺産にも登録されています。これらの遺跡は、カルタゴの歴史と文化を伝える貴重な資料であり、毎年多くの観光客が訪れます。また、カルタゴの歴史は、地中海世界の歴史を理解する上で欠かせない要素であり、学問的な研究の対象ともなっています。

    カルタゴの栄光は終わりましたが、その遺産は今日まで続いています。カルタゴの歴史を学ぶことで、古代地中海世界の複雑な政治、経済、文化のネットワークを理解する手がかりとなります。カルタゴの強大な海軍力、卓越した商業活動、そして豊かな文化遺産は、後世の文明に多大な影響を与えました。

  3. ガーナ王国(ガーナ帝国)

    ガーナ王国は、8世紀から13世紀にかけて西アフリカに存在した王国で、現在のマリやモーリタニアの一部に位置していました。金の豊富な鉱山とサハラ交易によって大いに栄えました。特に、塩と金の交換が王国の経済を支えました。ガーナ王国の首都クンビ・サーレは交易の中心地として多くの商人や学者が集まり、文化と学問の交流が盛んでした。

    ガーナ王国は、西アフリカに存在した古代の強力な王国で、8世紀から13世紀にかけて繁栄しました。現在のモーリタニア南部、セネガル北部、マリ西部にまたがる広大な領域を支配し、その首都はクンビ・サーレでした。ガーナ王国の名は「戦士の王」を意味し、現代のガーナ共和国とは異なります。この王国は、金と塩の交易によって莫大な富を築き上げました。

    ガーナ王国の経済は主に金の採掘と交易に依存していました。サハラ砂漠を越えるキャラバンが塩を運び、これをガーナ王国が保有する金と交換しました。サハラ交易路は、地中海沿岸地域や中東、さらにはヨーロッパとの貿易を可能にし、ガーナ王国はその中心地として栄えました。特に、サハラ砂漠の北側に位置するサハラ交易ネットワークを支配し、その戦略的な位置は王国の繁栄を支えました。

    クンビ・サーレはガーナ王国の首都であり、二つの都市から成り立っていました。一つは王宮や行政機関が集まる政治的中心地であり、もう一つは商人たちが居住する商業都市でした。この都市には、多くのモスクや市場があり、多様な文化や宗教が共存していました。イスラム教徒の商人たちが交易のために訪れ、彼らの文化や知識もガーナ王国に影響を与えました。

    ガーナ王国の統治者は、「ガーナ」とも呼ばれ、絶対的な権力を持っていました。王は、金の交易を直接管理し、その富を使って大規模な軍隊を維持しました。この軍隊は、王国の内部と外部の脅威から国を守るために重要な役割を果たしました。ガーナ王国の軍隊は弓兵や騎兵で構成され、高度な戦術を駆使しました。

    ガーナ王国の宗教は多様であり、アニミズムが主流でしたが、イスラム教も広がりを見せていました。イスラム教は主に商人や一部のエリート層に受け入れられ、モスクやマドラサが建設されました。これにより、ガーナ王国は宗教的にも多様性を持つ社会を形成しました。

    ガーナ王国の文化は、交易を通じて他の地域と交流し、多様な影響を受けていました。建築、工芸、音楽、文学など、様々な分野で独自の発展を遂げました。特に金細工や織物は高度な技術を持ち、これらの製品は交易品として高い価値を持っていました。

    12世紀に入ると、ガーナ王国は内部の対立や外部からの攻撃により次第に衰退しました。特にアルモラヴィッド朝の侵攻は王国に大きな打撃を与えました。このイスラム王朝は、ガーナ王国の土地を侵略し、イスラム教の布教とともに軍事的圧力をかけました。これにより、ガーナ王国は防衛力を弱め、交易路の支配権も失いました。

    ガーナ王国の衰退は、その後のマリ帝国の台頭につながりました。マリ帝国は、ガーナ王国の遺産を引き継ぎ、さらに広範な領域を支配しました。マリ帝国の時代には、サハラ交易が再び盛んになり、トンブクトゥやジェンネといった都市が文化と学問の中心地として栄えました。

    ガーナ王国の遺産は、今日の西アフリカの文化や社会に多大な影響を与えています。ガーナ王国の黄金時代は、西アフリカの歴史における重要な時期であり、その影響は現代にも及んでいます。ガーナ王国の歴史を通じて、古代アフリカの文明の多様性と豊かさを知ることができます。

  4. マリ帝国

    マリ帝国は、13世紀から16世紀にかけて西アフリカに存在し、ガーナ帝国の後継者として繁栄しました。マリ帝国はマンディンカ族によって建てられ、首都トンブクトゥは学問と文化の中心地として名を馳せました。マンサ・ムーサ王の時代には、イスラム教が広まり、彼の巡礼によって金が世界に知られることとなりました。マリ帝国の繁栄は交易、特に金と塩によって支えられました。

    マリ帝国は、西アフリカに存在した強力な帝国で、13世紀から16世紀にかけて繁栄しました。その領域は現在のマリ、セネガル、ガンビア、ギニア、ニジェール、ナイジェリアの一部に広がり、ガーナ王国の後継者としてその遺産を受け継ぎました。マリ帝国はその広大な領土と豊富な資源、特に金の豊富さで知られています。

    マリ帝国の創設者は、スンジャータ・ケイタという伝説的な英雄です。彼は13世紀初頭にマンディンカ族を統一し、マリ帝国を築き上げました。スンジャータの物語は「スンジャータ叙事詩」として伝えられ、今もなお西アフリカの文化遺産の一部となっています。彼の統治下で、マリ帝国は安定し、政治的な基盤が確立されました。

    マリ帝国の経済は、金と塩の交易によって支えられていました。特に、ニジェール川流域の金鉱は帝国の富の源泉であり、サハラ砂漠を越えるキャラバンによって北アフリカや地中海沿岸地域と取引されました。交易ルートの管理と安全を確保するために、マリ帝国は強力な軍隊を維持し、キャラバンの保護を行いました。

    14世紀には、マリ帝国はその絶頂期を迎えました。特に有名なのは、マンサ・ムーサ王の治世です。彼は1312年から1337年まで統治し、その間にイスラム教を広め、学問や文化の発展を推進しました。マンサ・ムーサは1324年にメッカへの巡礼を行い、その豪華な行列は彼の富と権力を広く知らしめました。彼の巡礼は、金の大量放出によってエジプトや地中海地域の経済に影響を与え、一時的なインフレーションを引き起こすほどでした。

    マンサ・ムーサの時代、マリ帝国は学問と文化の中心地としても栄えました。特にトンブクトゥは、イスラム学問の重要な拠点となり、多くのモスクやマドラサが建設されました。トンブクトゥには、当時の最高学府とされたサンコーレ大学があり、数千冊の写本が収蔵されていました。これらの写本は、宗教、科学、歴史、法律、文学など幅広い分野にわたり、トンブクトゥは「砂漠のアテネ」と称されました。

    マリ帝国の社会構造は階層的であり、王族、貴族、戦士、商人、農民、奴隷などの階級が存在しました。農業は経済の基盤であり、特に綿花、ミレット、ソルガムなどの作物が栽培されていました。農業技術は高度であり、灌漑システムや農地の管理が行われていました。また、家畜の飼育も盛んであり、牛、羊、ヤギが主要な家畜として飼育されていました。

    マリ帝国の政治体制は、中央集権的な君主制でした。王(マンサ)は絶対的な権力を持ち、帝国全土を統治しました。王は地方の統治者を任命し、彼らを通じて各地を支配しました。また、帝国は複雑な官僚機構を持ち、税収の管理や軍事、司法などの機能を担いました。

    16世紀に入ると、マリ帝国は徐々に衰退しました。内紛や外部からの侵攻が原因で、帝国の統治力が弱まりました。特にソンガイ帝国の台頭は、マリ帝国にとって大きな脅威となりました。ソンガイ帝国は、マリ帝国の領土を奪い、最終的にはその中心地であるトンブクトゥも支配下に置きました。

    マリ帝国の衰退後も、その文化と学問の遺産は西アフリカに残り続けました。トンブクトゥの写本や建築物は、現在もなお重要な歴史的遺産として保存されています。また、マリ帝国の歴史は、西アフリカの文化的アイデンティティに深く根付いており、その影響は現代にも及んでいます。

    マリ帝国の栄光とその後の衰退は、西アフリカの歴史を理解する上で重要な要素です。その豊かな文化、経済的な繁栄、そして学問の発展は、アフリカの歴史における輝かしい章を成しています。マリ帝国の研究は、アフリカの過去を理解し、現代社会におけるその遺産を評価するための重要な手がかりとなります。

  5. モノモタパ王国

    モノモタパ王国は、現在のジンバブエとモザンビークにかけて広がる南部アフリカの古代王国です。11世紀から15世紀にかけて栄え、大規模な石造建築物、特にジンバブエ遺跡で知られています。モノモタパ王国は金や象牙の交易で繁栄し、その豊かさはアラブやポルトガルの交易商人を引きつけました。大規模な都市遺跡と交易ネットワークは、アフリカ南部の歴史において重要な役割を果たしました。

    モノモタパ王国は、11世紀から15世紀にかけて南部アフリカに存在した強力な王国で、現在のジンバブエとモザンビークにまたがる広大な領域を支配していました。この王国は大規模な石造建築物で知られており、特に有名なのはグレート・ジンバブエ遺跡です。モノモタパ王国は、その繁栄の背後にある豊かな自然資源、特に金や象牙の交易によってその富を築き上げました。

    モノモタパ王国の名前は、「モノモタパ」という称号を持つ支配者に由来しています。この称号は「ザンベジ川の支配者」という意味を持ち、王の権威を象徴していました。モノモタパ王国は、ザンベジ川流域の豊かな土地と資源を活用し、農業や採掘業を発展させました。特に金の採掘は王国の経済基盤を支え、その産出量は非常に多かったとされています。

    モノモタパ王国の中心地であったグレート・ジンバブエ遺跡は、広大な石造りの都市であり、その建築技術は高度でした。石を積み上げて作られた巨大な城壁や塔、住居、宮殿などが存在し、その遺跡は今日でも観光名所となっています。これらの建築物は、モルタルを使用せずに石を巧みに積み上げる技術を用いており、その構造は数百年を経た現在でも堅固に保たれています。

    モノモタパ王国の経済は、金と象牙の交易を中心に発展しました。交易ルートはインド洋沿岸地域とつながり、アラブやインド、中国の商人たちと交流がありました。これにより、モノモタパ王国は多くの異文化と接触し、その影響を受けました。交易によって得られた富は、王国の政治的・軍事的な力を強化し、広大な領域の支配を可能にしました。

    モノモタパ王国の社会構造は階層的であり、王族、貴族、戦士、職人、農民、奴隷などが存在しました。王は絶対的な権力を持ち、宗教的な権威も持っていました。宗教はアニミズムが中心であり、祖先崇拝が重要な要素でした。祖先の霊を祀ることで、王や貴族はその正統性を強化しました。また、宗教儀式や占いが政治や社会生活の重要な部分を占めていました。

    モノモタパ王国の文化は、多様な影響を受けて発展しました。建築、工芸、音楽、文学など、様々な分野で独自の文化を育んでいました。特に、金細工や象牙細工は高度な技術を持ち、これらの製品は交易品として高い価値を持っていました。また、陶器や織物などの日用品も高品質であり、王国の技術力を示しています。

    モノモタパ王国は、15世紀後半からポルトガルとの接触が始まりました。ポルトガル人は、金と象牙の交易を求めて王国に接近し、次第にその影響力を強めていきました。これにより、モノモタパ王国の内部では対立や混乱が生じました。ポルトガルの介入は、王国の統治を弱体化させ、最終的にはその衰退を招きました。

    モノモタパ王国の遺産は、現在の南部アフリカの文化や歴史に深く根付いています。グレート・ジンバブエ遺跡は、アフリカの建築技術の高さとその歴史的な重要性を示すものであり、ユネスコの世界遺産にも登録されています。また、モノモタパ王国の歴史は、南部アフリカの歴史教育において重要な位置を占めており、その研究は地域のアイデンティティを理解する上で欠かせないものとなっています。

アフリカ大陸は古代から多くの文明が栄え、それぞれが独自の歴史と文化を築いてきました。特に注目すべきは、クシュ王国、カルタゴ、ガーナ王国、マリ帝国、モノモタパ王国です。これらの文明は、地域の豊かな自然資源や地理的条件を活用し、独自の発展を遂げました。それぞれの文明は、政治的な統治体制や経済活動、文化的な成果において他に類を見ない特徴を持っています。

クシュ王国はナイル川上流に位置し、その繁栄はエジプトとの密接な関係に大きく依存していました。エジプト第25王朝を統治した時期には、クシュ王国の王たちは「黒いファラオ」として知られ、エジプト文化の影響を受けながらも独自の文化を育みました。特にメロエの都市では、鉄器製造が盛んで、多くのピラミッドや神殿が建設されました。この高度な鉄器製造技術は、クシュの経済力を支える重要な要素でした。宗教的にはエジプトの神々を崇拝しつつも、独自の神話や儀式を持ち、豊かな文化的伝統を築きました。

カルタゴは、地中海沿岸に位置し、フェニキア人によって建設された都市国家です。その繁栄は強力な海軍力と広範な交易ネットワークに支えられていました。カルタゴは商業国家として、金、銀、銅、象牙、香料などの多様な物資を取引し、経済的な繁栄を享受しました。ポエニ戦争においては、ローマとの激しい対立があり、特にハンニバルの軍事戦術は歴史的に有名です。カルタゴの文化はフェニキアの影響を強く受け、宗教儀式や工芸品にその特色が表れています。ローマによる最終的な破壊後も、カルタゴの遺産は地中海地域に多大な影響を与え続けました。

ガーナ王国は、サハラ砂漠を越える交易ルートの中心地として知られ、特に金と塩の交易によって繁栄しました。クンビ・サーレはその首都として、商業と文化の中心地となり、多くの商人や学者が集まりました。ガーナ王国の王は、交易を直接管理し、富を蓄えるとともに強力な軍隊を維持しました。イスラム教の影響も受け入れつつ、アニミズムを基盤とする独自の宗教を持ち、多様な文化を育みました。内紛や外部からの侵攻によって次第に衰退しましたが、その遺産は後の西アフリカの文明に引き継がれました。

マリ帝国は、ガーナ王国の後継者として西アフリカに広がり、特に14世紀のマンサ・ムーサ王の時代に絶頂期を迎えました。彼のメッカへの巡礼は世界的に有名で、マリ帝国の富と権力を知らしめました。トンブクトゥは学問と文化の中心地となり、多くのモスクや大学が建設されました。イスラム教の普及とともに、マリ帝国は学問と文化の発展に大きく貢献しました。16世紀には衰退しましたが、その文化的遺産は今も西アフリカに深く根付いています。

モノモタパ王国は南部アフリカに広がり、特に金と象牙の交易で繁栄しました。グレート・ジンバブエ遺跡は、その高度な建築技術と都市計画の証拠であり、石を積み上げる技術は現在も評価されています。交易ルートを通じて多くの異文化と接触し、アラブやインド、中国の商人たちと交流しました。社会構造は階層的で、王の権威は絶対的でした。ポルトガルとの接触により、内部での対立が生じ、最終的には衰退しましたが、その遺産は南部アフリカの文化と歴史に大きな影響を与えました。

これらの古代王国の歴史と文化は、アフリカ大陸の多様性と豊かさを示しています。それぞれの王国は、独自の経済活動や文化的成果を持ち、現在もなおその影響を残しています。アフリカの古代文明を学ぶことは、地域の歴史を理解する上で重要であり、その多様性と豊かな遺産を再認識するための手がかりとなります。

出典と参考資料

  1. その数、エジプトの2倍! スーダンのピラミッド巡り」(日本経済新聞)
  2. 古代文明-ヌビア」(旅の軌跡 ~遥かなる悠久の歴史遺産~)

関連する書籍

  1. 古代アフリカ: 400万年前の人類と消えた王国―巨大大陸の謎を追う』(ヴィクトリア シャーロー,ジェイムズ デンボー,赤尾 秀子)

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